克美しげる没後10年 彼はなぜ銀座の人気ホステスに貢がせて殺害したのか?
復帰第2弾の「おもいやり」

ソープ嬢に転身して克美に尽くす

本日は2月27日。10年前のこの日、75歳の元歌手が脳出血で死亡した。

――克美しげる。
60歳以上の人なら、この名前を聞いて眉をひそめるかもしれない。それくらいショッキングな事件を起こした男だった。なにしろ誠心誠意自分に尽くしてくれた愛人を殺害したのだから。

克美は1937年生まれ、宮崎県出身。61年に当時の東芝レコードから歌手デビュー。63年にテレビアニメ「8マン」の主題歌を歌い、64年に出した歌謡曲「さすらい」が60万枚のヒットとなって人気歌手の仲間入りを果たした。

ところが人気が下火になり、70年代に入るとテレビの露出がぐっと減った。克美は再起を期して音楽関係者と交流を深めた。交流といっても自分を売り出してもらうための接待で、これによって100万円の借金をつくる。

そうした中、Oさんという銀座のホステスと深い仲になった。克美は妻子がいることを秘密にしていたが、まもなくばれてしまった。Oさんに「奥さんと別れて欲しい」と懇願され、克美は離婚を約束したものの、かわいい娘がいるため踏み切れないという中途半端な状態が続いた。

Oさんから月々30万円の手当をもらい、1000万円の借金を完済。ところが生来のギャンブル好きのため、賭けマージャンで再び借金苦に陥る。

Oさんが貢いだカネでギャンブルの借金を返すという自転車操業を繰り返し、Oさんはさらにカネを稼ぐために東京・吉原のソープ嬢となった。体を使って克美を支えたのだ。最終的にOさんが克美に貢いだカネは3500万円に達したという。今の価値に換算すると1億円近い。

そのころ東芝レコードは盛りを過ぎた歌手をカムバックさせる「3000万円大作戦」を企画し、克美を売り出す方針を固めた。75年3月、克美は「克美茂」と名前を改め、「傷」という楽曲で再デビューを果たした。克美はまだ離婚していないが、実質的な妻を自任するOさんは彼の仕事の現場にちょくちょく顔を出すようになっていた。

「奥さんのところに行って決着をつけるわ」

76年5月に出した復帰第2弾シングル「おもいやり」が有線放送の人気曲となり、克美は北海道で新曲キャンペーンを行うことになった。5月6日、克美が北海道に出発する前に「北海道には一人で行ってくる」と告げると、Oさんは「何を言ってるの。これから奥さんのところに行って決着をつけてくるわ」と宣言。この言葉に理性を失った克美はOさんの首を絞めて殺害した。殺害時の曲のタイトルが「おもいやり」とは皮肉だ。

克美はOさんの死体をクルマのトランクに詰めて羽田空港に行き、駐車場に止めたまま北海道に旅立った。北海道キャンペーンは成功を収めたが、そのころ羽田空港は大騒ぎになっていた。克美のクルマから異臭が漂い、血液が流れ落ちていることに気づいた通行人が通報。5月8日、Oさんの死体が発見され、克美は逮捕された。克美は38歳、Oさんは35歳だった。

同年8月、東京地裁は克美に懲役10年の実刑判決を下した。克美は大阪刑務所に服役し、模範囚だったため8年で出所。けなげな女性の命を奪ったわりには軽い処罰だという非難の声も上がった。

その後の克美は埼玉県でカラオケ教室を開くなどして社会復帰を果たしたが、89年に覚せい剤取締法違反で逮捕。懲役8カ月の実刑判決を受けるなど迷走した。

男の逆上を予測できたはずなのに……

事件が起きた76年当時、筆者は高校生だった。この事件がニュースやワイドショーで連日報道されたのを覚えている。人気が低迷していたとはいえ、克美は紅白歌合戦に2度出場した実力派だ。それがホステスにさんざん貢がせたあげく殺害したのだから、まさに前代未聞のスキャンダルだった。

当然ながら、世間は克美を絶対的な悪人とした。Oさんにさんざん貢がせ、自分のそばにソープ嬢がいてはカムバックの妨げになると思って殺害した。身勝手な犯行だと日本中が克美を糾弾した。好きな男を再生させるために風俗嬢にまでなった女性の無念を思えば当たり前のことである。

たしかに克美は血も涙もない極悪人だ。ただ裁判では、殺害時にOさんから「奥さんにすべてを話す」と言われ、頭の中がパニック状態になったことも明らかになった。この事件は76年のオムニバス映画「戦後猟奇犯罪史」(牧口雄二監督)にも盛り込まれ、Oさんをモデルにした女性が「週刊誌に全部しゃべって二度と舞台に立てないようにしてやる」と叫ぶ場面が登場する。

このシーンを見るにつけ、筆者はOさんはもう少し用心するべきだったという思いを抱いてしまう。場所は克美と自分しかいないマンションの一室だ。そこで激しく問い詰めれば、相手が逆上し手荒な手段で対抗することは予想がつく。せめて人目のある安全な場所で詰問できなかったのかと残念に思えてしようがない。

「彼女が家族のことを口にしたのでカーッとなり……」

97年、克美はメディアの取材で犯行時の心理をこう振り返っている。
「すべてはわたしの身勝手さがあの事件をひき起こしたんです。だけど、どうしてあんなことしてしまったんだろう、という思いがいまだにあるんですよ。あの当時、彼女のことが女房にバレ、確かに精神的に追いつめられていたんですが、そんな中で彼女がわたしの家族のことを口にした。それでカーッとなって……」

「それから先は、もう何がなんだかわかりませんでした。ただ、ちょうどその朝、新曲のキャンペーンのために北海道へ行くことになっていたので、とりあえず彼女をトランクに詰めて羽田へ向かったんです。キャンペーンは札幌、旭川を回りました。で、8日の午後、旭川駅に着いたとき、改札の向こうに何人かの人が立っていた。すぐにピンときましたね。と同時に、ホッとしたのを覚えています」

刑務所での日々については、
「服役中は般若心経を写経し、ひたすら故人の冥福を祈っていました」

人を殺害した直後のキャンペーン。克美はどんな思いを胸に歌ったのか。また、逮捕時に「ホッとした」とは何に安堵したのだろうか……。

余談ながら「8マン」は平井和正の原作で63年から週刊少年マガジンで連載が始まったが(アニメは63年11月から64年12月まで放映)、65年に作画担当の桑田二郎が拳銃所持の銃刀法違反で逮捕されたため、打ち切りになっている。

「8マン」は筆者が幼稚園児のころの超人気番組。8マンのシールが欲しくて、いつも丸美屋のふりかけ「のりたま」を買ってもらっていた。子供たちのヒーローが活躍する番組から2人の縄付きが出たとはなんとも皮肉な話である。

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