一人で会社に泊まり込んだ恐怖の徹夜作業
前回の続き。
1986年4月8日に岡田有希子(享年18)が自殺してから、筆者の周辺は慌ただしくなった。翌日、旺文社系の出版社「シーズ」の編集長と共にサンミュージックを訪れ、制作中の写真集を急きょ出版することで合意。タイトルは「岡田有希子お別れ写真集 さよなら…有希子」(写真)と決まった。突貫工事のため、筆者はその夜から2晩会社に泊まり込んだ。
最初の夜はよかった。カメラマンやデザイナー、他の記者などもいてワイワイ言いながら原稿を書いたりしていた。
だが2日目はつらかった。前夜のうちにカメラマンは写真のセレクトを終え、デザイナーは割り付けを完了している。彼らは夕方に帰宅した。
一方、筆者には原稿を書く作業が残っているため帰れない。会社に残って原稿用紙に向かった。他の記者が資料を探しやすいようにと、ボムやダンク、モモコ、平凡といったアイドル誌を有希子が掲載されているページを開いて並べてくれていた。数カ月分だから何十冊にもなる。それが床の上に山積みになっていた。
自分しかいない深夜だ。「あのころ有希子はどんな発言をしたんだっけ?」と思い、資料を探した。有希子の顔写真が何十枚もこちらを見ている。一昨日自殺した女の子に睨まれているようでゾッとさせられた。この世に幽霊がいるとは思っていなかったが、それでも怖かった。人間は孤独感に弱いのだと思い知った。
深夜にベルが鳴り、「有希子がいない!」
それはともかく、前夜に作業をしながら思いがけない事実を聞いた。その写真集は1月の元旦から香港で撮影が行われた。
1日目の撮影を終え、有希子と溝口マネージャー、合田カメラマン、ヘアメイクの女性などが一堂に会して夕食を取った。食後、簡単なミーティングを行い、翌日の午前にホテルのロビーに集まるという打ち合わせをしてそれぞれの部屋に戻った。全員が同じフロアに宿泊していた。
深夜0時ごろ、思わぬことが起きた。火災警報器が鳴り出したのだ。けたたましい騒音に、みんなが「何が起きたんだ?」と部屋のドアを開いて顔を出したが、火も煙も見えない。火事の気配がないのだ。
警報器の誤作動かと思った。だが有希子の姿が見えない。彼女の部屋のドアが閉じたままなのだ。ホテルの従業員に聞くと、有希子の部屋の火災報知器が反応して警報が鳴り始めためたというではないか。
「何か起きたんじゃないか?」
誰かが叫び、みんなで有希子のドアをノックした。ドアは開かない。みんなはますます心配になり、さらにドンドンと叩いた。しばらくして有希子が中からドアを開いた。
「ユッコちゃん、大丈夫?」
有希子に声をかけた。
有希子はいつもの癖でばつが悪そうに舌をペロリと出した。
「ごめんなさい。ドライヤーを使ってたら、報知器が熱を感知したみたい」
有希子はぺこりと頭を下げた。
シャワーのあと洗面台で髪を乾かしているとき、天井までドライヤーの熱が伝わり、火災報知器が反応してしまったようなのだ。
有希子が無事だったのでみんなはひと安心。翌日の撮影を控えた深夜ということもあって、一同はそのまま部屋に戻り、無事に翌朝を迎えた。その間、有希子の部屋の火災報知器が鳴ることはなかった。
以上が筆者がロケの参加者から聞いた話だ。
やはり「自作自演」だったのか?
「この話、なんかおかしくない?」
と彼は言った。
「ドライヤーの熱で火災報知器が鳴り出しただけでしょ」
と筆者が応えると彼はこう返した。
「帰国の飛行機の中で他の人とも話したんだけど、ドライヤーの熱くらいで報知器が鳴るんだったら、世界中のホテルが大騒ぎをしているはずだよ」
「そりゃそうですね」
「髪を乾かしたくらいで報知器が熱を感知して作動するわけがない。しかも有希子はなかなかドアを開けなかった」
「ということは?」
「彼女が火災報知器にドライヤーの吹き出し口を近づけたとしか考えられないよ」
彼によれば、部屋は天井が高いつくりだから、身長155㌢の有希子が手を伸ばしても報知器までは距離がある。おそらく洗面台にある椅子の上に立って、ドライヤーで報知器を熱したのだろうというのだ。
「つまり自作自演?」
「そうとしか考えられない」
「でもなぜ?」
「誰かにかまってほしかったんじゃないかな」
ロケ中の有希子は少しいじけた様子だったという。筆者はその理由を教えてもらったが、詳しくは書けない。もし自分で報知機を熱したのなら、彼女は何かに追い詰められていた、あるいは何かを渇望していたのかもしれない。
筆者は徹夜作業をしながら、深夜に一人の部屋でドライヤーを片手に椅子に乗り、天井の火災報知器を熱している少女の姿を想像した。ずらりと並んだ有希子の写真を見ているとその光景が脳裏に迫り、一人で徹夜原稿に向かっていることがますます怖くなった。ちなみに会社の隣りは靖国神社で、窓から大村益次郎の銅像が見えていた。
後年、筆者は結婚し新婚旅行中、妻にこの話を聞かせた。
「焦点の合わない目をしてドライヤーで報知器を熱していた。その姿を想像してみなよ」
こう言うと、
「そんな怖い話を聞かせないで。この意地悪。変態~!」
と怒られたものだ。妻を怖がらせようとしたのだが、実は話しながら筆者も背筋が寒かった。
生放送で記憶を頼りに中国語をペラペラ
この香港ロケではもうひとつの土産話を聞いた。
当時、香港では日本のアイドルタレントが人気を博していた。有希子もその一人で、香港ではスーパースターだった。
岡田有希子が来るというので、現地のラジオ局がゲスト出演をオファーしてきた。有希子は出演を承諾。番組の冒頭に中国語(広東語かも)で自己紹介と挨拶をすることになった。
とはいえ有希子は中国語を勉強したこともない。そこで現地のガイドが中国語で書いた挨拶文のメモにルビをふってくれた。分かりやすくいうと、カンペーみたいなものだ。有希子はロケの終了後にラジオ局に入り、カンペーのルビを読み上げて練習をした。
まもなく本番となり、スタジオに入った。ところが大事なルビ付きのカンペーを控室に忘れてしまった。番組は生放送である。時間的に控室まで取りに戻る余裕はない。
やむなく番組関係者は有希子に「日本語で挨拶して」と依頼した。ところが有希子は記憶を頼りに例のルビをすらすらとしゃべった。
「けっこう長い文だったけど、一気呵成にしゃべってたよ」
とは目撃者の証言。
「終了後、ラジオ局の人に聞いたら、一か所も間違えずにしゃべったそうだ。つまり短時間ですべてを記憶したということだね。その人はユッコの記憶力の良さにビックリしていた」
岡田有希子が頭脳明晰な少女だったことは有名だ。愛知県の高校に在学中、サンミュージックからスカウトされ上京を希望したが、両親に反対された。このとき親と交渉し、「次の試験で学年で一番の成績が取れたら、東京の芸能界でデビューしていい」との約束を取りつけ、見事にトップになったという逸話があるほどだ。
高校時代の成績といい香港のラジオ局の挨拶といい、彼女は天才的な記憶力を持っていた。天才ゆえに悩みを抱えていたのだろうか。
ちなみに「さよなら…有希子」は初版で3万部印刷し、4月末に店頭に並んだ。当然ながら、すぐに完売した。普通なら増刷をかけるところだが、出版元はゴールデンウイーク後に売れ行きが落ちるのではないかと危惧し、刷り足しをしなかった。
そのため3万部止まり。筆者も1冊しか持っていない。現在、アマゾンで1万6400円の高値がついている。