37年前の「岡田有希子」衝撃自殺 錯乱で緊急入院するほど心が不安定だったその実態
最後のシングルになった「くちびるNetwork」。松田聖子が作詞、坂本龍一が作曲を担当して話題になった。

「自殺」と聞かされて「やはり死んだか」と

「お釈迦になる」という言葉がある。何かが使い物にならなくなるとかダメになるという意味だ。その語源は江戸の鋳物師にあるとされる。

火力が強すぎて不完全な出来になったとき、鋳物師は「火が強かった」と言った。江戸っ子は「ひ」を「し」と発音するくせがあるため「しがつよかった」と響く。この語が「4月8日」に変じた。4月8日は釈迦の誕生日だから、いつしか「お釈迦になる」と表現するようになったという。あくまでも俗説だが、昔からこのように語り継がれている。

今日は4月8日。前述のとおり釈迦が生まれた日だが、筆者はある人気歌手が死亡した日として記憶している。今から37年前の1986年のこの日、歌手の岡田有希子(享年18)が自殺した。東京・四谷4丁目にあった所属事務所「サンミュージック」のビルの屋上から飛び降りたのだ。岡田有希子は1967年8月22日生まれ。生きていれば55歳である。

その日、筆者は地下鉄で都内を移動していた。フォーライフ、ビッグアップル、オフィス・ウエスト、ライジングプロ、ボンドなどレコード会社と芸能プロを訪ねてアーチスト写真や資料(主にタレントのプロフィール)を受け取った。何でもメールで済ませる現代から考えると手間ひまのかかる時代だった。

3軒目のオフィス・ウエストに着いたとき、先方の女性マネージャーから「先ほど御社の方から電話がありましたよ。すぐに会社に連絡してほしいとのことでした」と言われた。倉沢淳美の写真を受け取り、すぐに電話ボックスから会社にかけると、同僚から「有希子が亡くなった。自殺だ」と知らされた。

その瞬間、筆者の脳裏にひらめいたのは「やはり死んだか」という感想だった。彼女がいつか精神的に限界を迎えるのではないかと危惧していたからだ。

筆者は198510月に都内の「PMCプランニング」という編集プロダクションに入社し、主に旺文社の芸能ページの取材と原稿執筆を行っていた。この仕事に就いて最初に担当したタレントが当時堀越高校3年の岡田有希子だった。

そのため死去の知らせを聞いてすぐにサンミュージックに飛んで行った。ビルの前には2030人のファンの若者が立ちすくんでいた。建物の前の歩道にはチョークで人型の白線が描かれ、そこに有希子が横たわっていたことを示している。ファンたちはみな口を半開きにし、それこそ死んだような目で呆然と地面を見下ろしていた。言葉を交わしている人などいない。異様ともいえる光景だった。

有希子を小説家として演出した事務所の戦略

岡田有希子と初めて顔合わせしたのは85年12月7日。ドラマ「禁じられたマリコ」(TBS)の収録現場の撮影スタジオ「東宝ビルト」で先輩カメラマンに紹介され、立ち話程度の挨拶を交わした。

旺文社は有希子をキャンペーンガールに起用していたこともあって、子会社「シーズ」から彼女の写真集を出す方向で動いていた。その過程でサンミュージックの相澤正久部長(現社長)から「今度の本は単なる写真集ではなく、有希子に小説を書かせてそれを掲載したい」との依頼を受け、旺文社とシーズも同意していた。相澤氏は有希子に知性的なイメージを吹き込もうとしていたのだ。

とはいえ寝る間もないほどハードスケジュールの有希子がいきなり小説を書けるはずがない。そこでシーズのN編集長がゴーストライターを探すことになった。

撮影担当はPMC社員の合田晃カメラマンである。1231日夜、写真撮影のため有希子と溝口伸郎マネージャー、合田カメラマンらが香港に出発した。

年が明けて1月25日、N編集長を交えて有希子とのミーティングを行うことになった。N編集長はMさんというフリーライターを同席させた。小説のゴーストライターを勤めてもらうためである。筆者と合田カメラマンを交えた4人でサンミュージック近くの喫茶店で待っていると、相澤氏が血相を変えて飛び込んできた。

「申し訳ありません。有希子が熱を出して病院に行ったので、本日の打ち合わせは中止にしてください」

と平謝りしている。筆者の手帳には「有希子とMさん面談 有希子入院」と記されている。相澤氏は「入院した」と説明した。

仕切り直しで1月30日、改めて打ち合わせを行った。場所はサンミュージックが入っていた大木戸ビル内の喫茶「みぁあふ」。有希子はいちごミルクを注文した。彼女の大好物だ。

出席者は写真集の制作側が筆者とN編集長、合田カメラマン。サンミュージック側は有希子本人と溝口マネだった。話し合いは「作家として小説を書く企画が進行している」と有希子を説得し、納得させることから始まった。

この話に有希子も乗り気になっていた。ただ、変だなと思うことがあった。筆者やN編集長が「ユッコちゃん、どんな物語にしましょうか?」と聞くと、有希子はこちらに目を向けず、隣りに座った溝口マネを振り返る。溝口マネが「どんな物語にしたいかと聞いてるよ」と説明すると、有希子が「ファンタジーな小説がいい」と返し、溝口マネがわれわれに「ファンタジーが希望だと言ってます」と伝える。まるで伝言ゲームだ。

断っておくが、有希子と溝口マネは筆者の目の前でこの伝言のやり取りを行っている。つまり有希子はわれわれと直接会話しないのだ。これではまるで時代劇で見かける大奥のお局さまの会話だ。有希子と溝口マネにとってはそれが当たり前の行為なのである。なんともシュールな光景だった。

ともあれ、有希子の「高校生の女の子を主人公にしたコミカルなストーリーにしてほしい」という要望に沿って企画はスタート。通しタイトルは「メロディラインは夢の中」となり、毎回有希子が大まかなストーリーを提示してM氏が手書きで執筆。完成した小説は旺文社の「中一時代」に連載された。

躁とうつの間を行き来していた

その後も通常の取材と小説の内容の打ち合わせで有希子と何度か会った。

筆者の手帳には以下のようなメモが残されている。

・2月1日 有希子撮影と取材(六本木アートセンター)

・2月5日 有希子単行本打ち合わせ。

・3月8日 有希子、チェック(サンミュージック5F)。

「六本木アートセンター」は撮影スタジオで、その日はポスターの撮影を行った。単行本の打ち合わせは有希子にストーリーを作ってもらう作業で、チェックはM氏が書いた生原稿を有希子に読んでもらい、この内容でいいか本人の了解を得る作業である。

こうした作業を進める間、筆者は有希子の精神状態が躁とうつの間を反復しているのを感じ取った。あるときは取材の席に座るなり両肘をテーブルにつき、組み合わせた手に額を乗せたままうつむいて口を利かない。ふさぎ込んでいた。しばらくして溝口マネが話しかけるとやっと口を開いたが相変わらず筆者たちに向かって何も言わず、あくまでも溝口マネへの返答だった。

パソコンはなかったが、打ち合わせ中の有希子はこのポーズだった。

こうした会談中のほとんどの時間、有希子は顔を伏せていた。仕事で体が疲れているというより、精神的に追い込まれていたのだろう。筆者は生まれて初めて「心の病」の人を間近で見た気がした。

そうかと思えば元気な顔を見せたこともあった。メモはしていないが3月の末に六本木アートセンターで会ったときはこれまでにない躁状態で、われわれとも笑顔で言葉を交わした。少し前に堀越高校を卒業し、生まれて初めての一人暮らしを始めるため買い物をしたそうで、溝口マネが「こんな大きなスタンドライトを買ったのはいいけど、運ぶのが大変でした」と身振りを交えて言い、有希子は溝口マネと顔を見合わせて笑っていた。死の10日ほど前のことだった。

おそらくそのときは躁状態だったのだろう。有希子は笑ってはいるが、筆者は「いずれこの子は重症化するのではないか」と思った。自殺したと聞かされたときに「やはり死んだか」と思ったのはそのせいだった。ただ、これほど早いとは思わなかったが。

有希子が亡くなったあと、関係者から聞いたのだが、1月25日に打ち合わせをドタキャンしたのは熱を出したからではなかった。実は錯乱状態に陥ったため病院に連れて行ったのだという。

大好きないちごミルクが仇となったのか?

運命の4月8日については筆者もよく覚えていない。ウィキペディアの「岡田有希子」のくだりにはこう書かれている。

198648日、自宅マンションでリストカットを行いガス自殺未遂。2階上のマンション住民がガス臭に気付き、管理人が110番と東京ガスに通報した。レスキュー隊が駆けつけたとき、岡田は押入れの下段でうずくまり泣いていたという。北青山病院(東京都港区北青山)で治療を受け、東京都新宿区四谷のサンミュージック本社に戻った直後、1215分に本社が入居しているビルの8階屋上から飛び降り自殺した。満18歳没。遺書とみられる鉛筆書きの便箋が残されていた〉

事務所のスタッフがみぁあふに有希子の好きないちごミルクを注文するため席を外し、そのわずかな間に屋上に駆け上がったと報じられた。スタッフの優しさが命取りになったといえようか。

例の写真集は「さよなら、有希子」というタイトルで緊急出版された。筆者はそのために2晩会社に泊まり込んだ。その間、写真撮影で訪れた香港で奇妙なことが起きたと知った。その話は改めて書きたい。

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