本の著者は「はねられたか自殺した」と言うが、聞いてないよぉ~
昨日、友人のN君がフェイスブックを通じて連絡をくれた。筆者の名前を見かけたので友達申請をしたとのこと。メッセージの中で昨年7月に食事したときの話にも触れていた。
歌舞伎町の中華料理店で会ったとき、どういう流れだったか、心霊写真の話題になった。実は筆者は中学時代、心霊写真なるものを撮影したことがある。それが上掲の白黒写真だ。
N君は帰宅後に改めてネットでこの写真を見たそうで、自分のフェイスブックで報告したのだと伝えてきた。フェイスブックは、
「投稿者として知人の弟らしき名前まで転載されていた。あらためて見てみると、やっぱり怖い写真だ。私のように多くの読者がこの写真をトラウマ的に記憶しているに違いない」
という文面だ。
筆者は田舎の中学生のころ写真に凝っていて、カメラをぶら下げて自転車に乗り、いろんな物を撮って回った。そんな折、ローカル鉄道の線路を撮影。後日、DPE店から上がってきた写真を見ていたら、線路わきにセーラー服を着た女の子のようなシルエットが写っていた。この写真を筆者の弟が「僕が撮りました」と出版社に送ったのだ。
送り先は東京の二見書房。同社が1974年に単行本「恐怖の心霊写真集」を出版していたからだ。まもなく本の著者の中岡俊哉から「心霊写真として認定します。ついては掲載の許可をください」との鑑定書と使用許諾書が送られてきた。翌75年、二見書房からこの写真を掲載した本が送られてきた。それが「続・恐怖の心霊写真集」だ。掲載料はもらっていない。
解説文には、少女らしき姿が見えるとある。加えて「おそらくこの霊体は、この鉄道ではねられて死んだか、もしくは自殺したかだと思う」とある。ただ、筆者は地元民なので分かるが、この場所で飛び込み自殺があったなんて話は聞いたことがない。まあ、こうやって怖い話は演出されていくのだろうなぁと思った次第だ。
当時の筆者はまだ高校生で、幽霊やUFO、超能力などを少しは信じていた。だけど今では信じる気になれない。本物の幽霊を見たことがないからだ。実際、上記の写真の線路の右下には線路と並行して直線状の道が伸びている。筆者は高校の3年間、その道を自転車で登下校し、夜遅くに一人で走ることもあったが、一度も少女の幽霊を見ていない。
ちなみにその後、大学時代にたまたま本屋で雑誌「写真時代」(白夜書房)を見ていたら、心霊写真特集のページにこの写真が掲載されていたのでビックリした。中岡俊哉はいちいち撮影者の許可を取らず、あちこちの媒体に提供していたようだ。
人は幽霊を見たら発狂する
昔からこんな話がある。
「幽霊を見た人間はショックで発狂し、精神科に入院する」
そのとおりだろう。夜道にお岩さんみたいな顔の女が火の玉を伴って「恨めしや~」と現れたら、誰だって恐怖で気が変になるはずだ。
しかしである。人類の歴史の中でこの世に恨みや未練を残して死んだ人間はごまんといる。彼らがいちいち「恨めしや~」と出てきたら、世の中は幽霊だらけになり、精神科病院は満杯になる。すなわち国の医療予算が破綻する。そうならないためにも、国は幽霊たちを「出てこないで~」と説得しなければならない。これが政治というものだと、岸田総理に教えてあげたい。
ちなみに20年ほど前、あるパーティーで二見書房のT役員と名刺交換した。筆者が「実は僕の写真を御社の単行本に掲載してもらったんです」と言うと、T役員は迷いもなく「心霊写真集ですね」と返した。同社の「恐怖の心霊写真集」シリーズは何冊も出ている。筆者みたいな人物が何人もいるようだ。
それはともかく、N君は中学時代、オカルト話が大好きだったそうで、フェイスブックをこう締めくくっている。
「ただ、オカルト話をしなければ、私が中学の時、衝撃を受けた写真を撮った人が知り合いだったことはずっとわからないままだったに違いない。時空を越えた、思いも寄らないめぐり合わせではあった」
人間は話してみないと相手との縁が分からないものだなぁと、めぐり合わせの不思議さを痛感したのだった。
そういえばこのブログ「今夜もとんかつ定食」は7年前から付き合いのある友人M君に作ってもらった。長らく知り合いだったのに、彼がブログの達人だと知らなかったため、筆者のブログ計画は長らく停滞していた。2カ月前、M君と食事して初めて彼の高等テクを知り、このブログを作製してもらえた。
「もっと早く教えてよ~」
筆者は口をとがらせて言った。本当に、人間は話さないと分からないものなのだ。