「岬めぐり」の山本コウタロー 昨年7月の死去をテレビが黙殺した不条理

脳内出血で73歳の命閉じる

年末に「書こう書こう」と思いつつ、生来のサボり癖のせいでほったらかしにしてしまったのが山本コウタローと彼のヒット曲「岬めぐり」だ。

昨年はアントニオ猪木や上島竜兵、渡辺徹、松原千明、仲本工事など多くの著名人が亡くなり、年末の情報番組などが彼らの足跡を紹介していたが、山本コウタローに触れたコーナーを見た覚えがない。

山本は昨年7月、脳内出血で73年の命を閉じた。早すぎる死は筆者にとってショックだった。

12月30日付けのデイリー新潮では音楽評論家の富澤一誠が山本についてこう語っている。
「近年は耳が聴こえづらくなっていましたが、頭脳は明晰。“『走れコウタロー』『岬めぐり』とたった2曲で50年”と自ら言って笑わせる話術も健在でした」

山本は1948年生まれで、本名は「山本厚太郎」。大学紛争の影響で東大を受験できず、一橋大学を卒業した。

在学中にフォークグループ「ソルティー・シュガー」を結成し、「走れコウタロー」(70年)がスマッシュヒット。同グループ解散後は「山本コウタローとウィークエンド」を結成し、74年に「岬めぐり」をヒットさせた。同曲は山上路夫(36年生まれ)が作詞を手がけ、山本は「山本厚太郎」名で作曲を担当している。

「あなたがいつか 話してくれた」の語りかけで始まるこの曲は70年代フォークの最高傑作のひとつだと思う。青年が恋人と一緒に行こうと約束していた岬を一人でめぐる内容だ。どういう事情かは分からないが青年は恋人と別れ、今は「幸せそうな人々たち」とバスに乗って岬を走っている。

恋人の想い出話はなく、難しい文言も使わず平明な言葉で情景を表現。青い海を見ながら、サビで「悲しみ深く 胸に沈めたら この旅終えて 街に帰ろう」をリフレインする。山本が書いたアップテンポなメロディーによって悲壮感が中和され、ラストまで爽やかな印象だ。

前出の記事で富澤はこう証言している。
「“岬めぐりの バスは走る”というサビの部分の歌詞が、自分のあたためていたメロディーとぴったりとはまった、と山本さんは驚きを話してくれました」

「くだける波の あの激しさで」に若者は陶酔した

筆者は大学時代、同年代の友人たちとよくこの曲を歌った。男たちの感想はみな同じ。
「くだける波の あの激しさで あなたをもっと 愛したかった」という一節に酔っていた。
「ここがいいんだよなぁ」
と口々に称賛したものだ。

本稿を書くためにユーチューブで聞いたが、やはり名作だ。演歌風の不幸の押し売り感は一切ない。恋人を失った悲しみは深く「僕はどうして生きていこう」と自問するが、それは青春の傷跡だ。

若いがゆえにいずれ傷は癒えるだろう。そうした立ち直りの可能性が秘められているところが魅力だと思う。歌詞と曲がこれほど絶妙にシンクロした曲も珍しい。何度聞いても飽きないのだ。

「岬めぐり」がヒットした74年、筆者は高校1年だった。そのときは「ノリのいい曲だな」という程度だったが、年齢を増すごとにこの曲の良さが分かるようになった。20歳のとき、遠距離恋愛の恋人に新たな男ができたため手痛い失恋を経験したからだ。

曲の歌詞は「くだける波の あの激しさで あなたをもっと 愛したかった」だが、愛情だけで恋愛が続くはずもない。むしろこの歌詞が物語るように、人間とは別れの連続だろう。

井伏鱒二ではないが「サヨナラダケガ人生ダ(人生足別離)」ということ。こうしたほろ苦い経験によって、歌や文学作品の秀逸さに気づくこともある。そういう意味で「岬めぐり」は人間ドラマと教訓をはらみながら、人生のガイドブックのように若いころの筆者に語りかけてきた。「愛情を注いだところで、別れはキミにつきまとって離れないのだ」と。

10年ちょっと前、亡くなった天野滋(NSP)を偲ぶコンサートが東京の九段会館で開催された。10組近いフォーク歌手が歌う中、山本が「岬めぐり」を歌ったときが一番盛り上がった。

後日、山本のソロライブを取材に行った。終了後にインタビューの時間をもらい、「先日は『岬めぐり』が一番受けてましたね」と言うと、山本は照れくさそうに笑い、「いえいえ」と謙遜していた。会場に常連の男性ファンが数人来ていて、彼らと談笑する姿に、友達を大切する人という印象を受けた。

半年後、有名人に健康法を語ってもらう企画を担当し、電話取材で山本にコメントをもらった。
「僕は根菜類をよく食べるよう心がけています」
などと丁寧に話してくれ、健康に気を使っていることを伺い知ることができた。そんな人が脳内出血で死去とはまことに気の毒。何度も言うが、73歳は早すぎる。

山本は87年に白鴎大学の非常勤講師になり、99年からは教授。19年の定年退職まで務めて名誉教授となった。音楽界はインテリの逸材を失ったことになる。メディアは彼の死を積極的に報じて、その足跡を偲ぶべきだった。

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