アントニオ猪木死去 モハメド・アリ戦の死亡騒動とイラク人質解放の舞台裏
アントニオ猪木が死去した。鋼のような筋肉をまとったマッチョマンの齢79での最期。難病の全身性アミロイドーシスと闘い、げっそりとやせ細った姿には愕然とさせられた。あんな強い男でも死ぬのだなと彼の死であらためて命の儚さを噛みしめた次第だ。
猪木で思い出すことは山ほどある。筆者が子供のころは日本プロレスからの離脱騒動。このとき「日本プロレスを乗っ取ろうとした」などと言われた。
1976年6月に行われたボクシング世界ヘビー級チャンピオン、モハメド・アリとの対戦はその後の異種格闘技戦の先がけだったかと思う。このとき筆者は田舎の高校生で、悪友たちとスーパーのテレビ売り場で試合を見た。ドキドキしながら見ているとゴングが鳴り、いきなり猪木は背中をマットにつけてあお向けに寝転んだ。猪木がアリの体を捕える場面もあったが、これといった盛り上がりもないまま、試合は終わった。アリがしきりに手鼻をかんでいたのが印象に残っている。
試合はつまらなかったが、翌日の新聞記事に驚かされた。沖縄でこの試合を見ていた老人が死んだという。ゴングが鳴って10秒ほどしたころ心臓発作に見舞われ、救急車で運ばれたが、亡くなったと報じていた。興奮しすぎたのだろう。こんな茶番試合で死ぬなんて、無駄死にだなぁと思ったものだ。
人質奪還のパフォーマンス
もうひとつ思い出すのが90年の人質奪回だ。湾岸戦争の折、日本の商社マンなど在留邦人がイラクで人質になった。このとき猪木はスポーツ平和党の党首として彼らを連れ戻すために、配下のレスラーたちとともに現地に乗り込んだ。イラクで平和の祭典と称してプロレス試合を披露(このプロレス試合は日本人の人質も見に来ていた)。そのかいあって出国を阻止された人質の一部の36人が解放され、猪木とともに帰国した。
ただしこの行為は日本政府の反対を無視してのものだった。猪木のファンや信者は彼を英雄と見ただろうが、筆者の目には点数稼ぎの独断専行パフォーマンスに過ぎなかった。筆者の友人たちも猪木信者でない者は一様に「売名パフォーマンスだよ」と苦笑したものだ。ただ何度も言うが、猪木のファンと信者にはヒーローの成功話として輝いていたし、今も輝いている。それは今回の訃報を受けた報道でも分かる。
このときスポーツ紙にこんな記事が掲載された。猪木はイラク側から色好い返答をもらえず、人質奪還を諦めて帰国の飛行機に乗ったが、一旦座席に座りながら「やっぱり戻る」と言って飛行機を降り、再びホテルに向かったという内容である。それから間もなくしてイラク側は猪木のために36人を解放した。筆者はずいぶんドラマチックだなぁと思った。
ともあれ日本のメディアには、自由になった人質とともに片手を突き上げる猪木の写真が躍った。全員を解放させたわけではない。何人でもいいから俺によこせと言わんばかりの交渉で得点を稼いだことになる。
その後、飛行機内の「やっぱり戻る」行動について関係者からこんな話を受けた。
「実は猪木はイラク側からまとまった人数の人質を解放するとの連絡を事前に受けていた。これで英雄になれる。だけど今一段の演出が欲しいということになり、明け方に数人で方法を考えた。その結果、飛行機に乗り込んだあと『自分だけ帰るわけにはいかない。もう一度粘り腰で交渉する』という姿勢をアピールするために、飛行機を降りる演出を考えついた。これにスポーツ紙が飛びついた」
なるほど。プロレスを八百長呼ばわりするつもりはないが、この格闘技が筋書きのあるエンターテインメントであることは間違いない。だからこそ流麗な格闘の連続技を披露できる。プロレスが華麗なるショーであるように、猪木の人質奪還も信者に感動の涙を流させる、あざといショーだったわけだ。