差額ベッドを知らず1カ月60万円取られる
昨年秋、知人が脳挫傷を負って1カ月入院した。頭を数針縫って痛い思いをしたところに入院費用がのしかかってきたという。
理由は個室使用料だ。病院に運び込まれたとき、看護師らしき女性から「個室にしますか?」と聞かれ、深く考えずに「はい」と答えてしまった。そのため1日2万円の個室代を払うはめに。部屋代だけで1カ月分の60万円をきっちり取られたわけで、細君に叱られたらしい。
入院の際の個室使用料は筆者が大学生だった四十数年前から問題になっていた。当時は「差額ベッド」という文字が新聞やニュースに踊り、「1日1万円」などと報じられた。そのため「入院することになっても、決して個室を使ってはならない」と自分に言い聞かせたものだ。
筆者の知人は70年間生きてきたが、個室と大部屋の料金に違いがあることを知らず、安請け合いのようにクビを縦に振って金60万円の高価な地雷を踏んでしまった。傷と支払いのダブルパンチで痛い思いをしたわけだ。彼の失敗から、安易に同意しないよう今一度自分を戒めたい。
と、こんなことを考えているとき、俳優の佐野史郎が「徹子の部屋」(テレビ朝日)に出演したとのニュースを目にした。佐野は昨年、多発性骨髄腫で入院。番組で闘病を「楽しかった」と振り返った。
その理由がいかにも佐野らしい。「撮影現場と同じだったから」というのだ。
佐野によれば、医師は監督、病院のスタッフはカメラマンや照明マン。彼らの「この病気をみんなで治そう」という気持ちは「この作品を良いものに仕上げよう」という撮影現場と同じ感覚。
そのため佐野は「自分は患者役に徹すればいい」と考えられるようになり、不安がなくなったという。そうしたことを舞台演出家から言われたことがあるため、がんを告知されたときもうろたえなかったそうだ。
なるほど、人間は気持ちの持ちようで地獄を極楽に変えることができるわけだ。
一流の心理学者ですら脱走したくなる
20年ほど前、仕事でお世話になっている心理学博士のSさんが手術を受けた。内臓のがんで通院し、ついに手術となったのだ。
Sさんは東大法学部を出たインテリで、当時50代。手術後に電話したら、
「入院は個室じゃなく、大部屋のほうがいいよ」
と笑っていた。
Sさんは少しお金に余裕があったため、当初は個室に入っていた。ところが個室に一人でこもっていると気が滅入るというのだ。
奥さんや看護師が不在だと話し相手がいないため孤独を感じる。おまけに手術が近づくと、「もうすぐ腹を切られるんだ」と恐怖感が増してくる。手術を前にした入院患者とはそういうものらしい。
「実際、大部屋には手術前に病室から逃げ出した患者もいたんだよ」
とSさん。敵前逃亡というか、脱走兵がいたわけだ。
Sさんがなぜ、大部屋の事情を知っているかというと、途中から部屋を移動したからである。手術の2日前に希望して6人部屋に場所を移した。同室の人たちと世間話をしているうちに気持ちが晴れたそうだ。
「心理学者の僕ですら、手術のことを考えると脱走したくなった。でも大部屋に移って他の患者さんたちと世間話をし、冗談を言い合ってるうちに、不思議なもので怖くなくなったんだよ」
手術を受けたあとも大部屋に戻り、同室の人たちとワイワイ賑やかに過ごしたという。Sさんは心理学者だけあって話題が豊富。人が何を考えているかを先回りして理解できるし、大部屋は人間観察の実験場でもある。おかげで入院患者の心理を探ることができたそうだ。
「おそらく個室にこもっていたら、出術前も手術後も陰陰滅滅とした気分に陥っていたはず。大部屋に移ったおかげで、笑いながら過ごすことができた。笑いは免疫力を高めてくれる。おそらく術後の回復も早まったはずだ。何度も言うけど、入院は大部屋がいいよ。おススメ!」
看護師や患者仲間と笑って暮らした渥美清
そういえば、俳優の渥美清(1996年に68歳で没)は若いころ結核を患い、25歳から2年間病院に入院していた。渥美は1928年生まれだから、25歳当時は52年ということになる。
今ほど医学が進んでおらず医療施設もお粗末な時代に、さぞや辛い闘病生活だっただろうと思ったら、そうでもないらしい。以前、渥美は何かの取材でこの2年間について、同室の患者や看護師たちを相手に毎日冗談を言って楽しく過ごしていたと明かし、「カネはないけど、希望があった」「それが元気になる秘訣だよ」みたいなことを語っていた。
我々は入院するなら個室のほうが快適で気楽と思いがちだが、実は逆というわけだ。大部屋が安価な上に気持ちが明るくなり、病状にもプラス効果であるなら、筆者のような貧乏人には朗報だ。やはり神様は弱者に微笑んでくれるのだろう。アーメン。