狂乱のバブル時代 六本木→渋谷の2㌔でタクシーは25万円のチップを稼いでいた

別荘の管理人は1カ月働いてボーナス150万円

1980年代後半のバブルの時期は編集プロダクションに在籍していた。年収350万円の薄給。編プロにしては悪くないかなと思ったが、当時は一杯3万円のコーヒーが話題になるなど、日本全体が金余りの熱狂にあった。そんな中、マスコミの底辺で働く筆者はバブルの恩恵に浴した覚えがない。

ただ、当時は毎晩のようにパーティーに出ていた。東宝が映画の製作発表をすれば終了後に帝国ホテルで懇親会。テレビ局は東京會舘や赤プリなどでのパーティーでタダ飯を食わせてくれた。パーティーでたくさん食べて食費を浮かせる。これが安月給を生き抜くサバイバル術だった。

勤務先の会社は「PMCプランニング」といいい、旺文社の雑誌の芸能ページを担当していた。この会社は編プロ以外に警備会社も経営していた。

1985~87年は警備員を1人募集したら20人くらいが面接に来ていた。競争率20倍の買い手市場だ。

ところが87年の秋ごろから応募者が急減。最後は新聞に募集広告を出しても1人も応募してこない状況になった。毎日好景気のニュースを見てはいたが、応募者の動きを見て「世の中は本当に景気がいいんだ」と実感した。

ちょうどそのころ、友人の両親が旧財閥系企業の別荘の管理人に採用された。夫婦で住み込みの仕事。入った翌月が12月で、友人は、
「うちの親、まだ1カ月しか働いてないのにボーナスを150万円ももらったよ」
とビックリしていた。採用されたばかりの管理人に多額のボーナスを出すなど、あの前澤友作も顔負けのカネ配り現象だ。

筆者はバブルのころの話を聞くのが好きだ。本ブログにも書いたが、中央省庁からわずか24ページのPR誌の制作を4000万円で請け負ったフリーライターもいた。普通なら粗利3900万円の仕事だ。年に4回発行の季刊誌だったから、彼のもとに年間1億6000万円が転がり込んだことになる。それが10年続いた。合計で16億円。筆者に言わせれば税金泥棒だ。

先日ネットで知り合った飲食店関係者は、バブル期に六本木の深夜レストランで店長をしていたという。常連客は六本木から渋谷まで行くときにこの元店長氏に頼んでタクシーを呼んでもらう。客が多いのでタクシーはなかなか来てくれない。当然ながらチップの金額が吊り上げる。

「バブルの最盛期は六本木から渋谷まで運転手にチップを5万円渡していた。店内で『渋谷に行く人はいませんか?』と呼びかけると『俺も乗っけてよ』という客が何人もいた。運転手は4人を相乗りさせ、それぞれから5万円受け取る。六本木と渋谷の距離は2㌔。わずか2㌔走っただけで運転手は20万円のチップを手にした。客が体を潜り込ませて5人乗ることも多く、チップは25万円になった。みんな文句を言わずカネを払っていた」(元店長氏)

カネをカネと思わない狂った時代だった。

100万円を借りに行ったら……

筆者が仲良くしてもらっている右翼民族派のリーダーのAさんは経済界ともパイプがあった。あるとき故郷に帰省することになった。交通費やお土産代などを考えると100万円が必要になり、知り合いの不動産会社社長に「少し貸してほしい」と頼んだ。

社長は「いくら必要?」と聞いてきた。
「1本お願いしたい」
「1本か。では明日取りに来て」

翌日Aさんはその会社を訪ねた。社長室に案内されてビックリ。テーブルの上に100万円の束が10個積まれていた。相手の社長が「1本」を1000万円と勘違いしたのだ。

Aさんは100万円を背広の内ポケットに入れて持ち帰るつもりだったからカバンを持参していなかった。
「仕方ないので、背広のあちこちに札束を詰めて持ち帰ったよ」
Aさんはいつもこの話を身振り手振りで語ってくれる。見ている筆者はその姿にいつも笑ってしまう。背広は着ぐるみのように札束でふくらみ、重かったそうだ。

本稿を書くにあたって、このエピソードを書いていいかとAさんに尋ねたら、
「あのころ『貸して』と言うのは『くれ』と同じ意味だった。当然、借用書は入れてない」
と教えてくれた。つまり返す必要のない1000万円だった。1000万円を平気でプレゼントする時代だったのである。念のため言うと、相手の社長は純粋に友情のあかしとして用立ててくれた。

狂乱のカネ余り状態の中では「ホンマかいな?」と思える出来事がほかにもたくさんあった。またの機会に紹介したい。

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