日本人の耳が接客業の「お客さま」に慣れてきたワケ
滝川クリステルの「おも・て・な・し」ではないが、日本のサービス業の接客態度はこの20年ほどでかなり良くなったと思う。今はどこの店に行っても客は「お客さま」と呼ばれる。
昔はお客さまという言葉はそれほど一般的ではなかった。1970年代の半ば、歌手の三波春夫が「お客さまは神様です」とテレビやコンサートで言ったとき、「ばかに丁寧だなぁ」と感じ、筆者は恥ずかしさを覚えたほどだ。三波のこの言葉は一種の流行語になったものだ。
1977年の夏にキャバレーでボーイのバイトをした。店は横浜駅西口から「徒歩0分」が売りのキャバレー「ハリウッド」。
ある晩、閉店時間を過ぎているのに席を立たず、ちんたらと酒を飲んでいる客がいた。従業員のウェイターたちが「お客さま。申し訳ありませんが、もう閉店です」と声をかける。
すると客は「お客さまお客さまだって。お客さまは神様ですってか」とウェイターをからかった。これはまだお客さまと呼ばれる機会が少なかった。つまり物珍しかったからだろう。
81年の映画「野獣死すべし」で違法カジノの黒服が伊達邦彦(松田優作)に「お客さま、まだいらしたんですか。お帰り願えますか」と詰問する場面でも「お客さま」に馬鹿丁寧な印象を受けた。
そのころのテレビドラマを見れば分かるが、居酒屋や料亭などでも「お客さん」と呼ぶのが一般的だった。ヤクザが運営している違法カジノの「お客さま」はなおさら不自然に聞こえた。
筆者が仕事で頻繁にタクシーに乗っていた30年前は、運転手が「お客さん、もうボーナス出たんですか?」などと気軽に話しかけてきた。そのころはまだ「お客さま」は浸透していなかった。
しかし今はタクシーに乗るとたいていは「お客さま」と呼んで大事にしてくれる。スナックやナイトクラブのママさんと話すと必ず「うちのお客さまは」という言い方だ。以前、飯田橋のラーメン屋で忘れ物をしたら、店員が「お客さま、忘れ物ですよ」と追いかけてきた。
そんなわけで最近は「お客さま」と呼ばれても照れ臭くなくなった。耳が慣れてきたのだ。こうなったのはやはり三波春夫の功績が大きいかもしれない。
考えてみると、皇室を呼ぶときは昔から「美智子さま」とか「皇太子さま」という言い方をする。昔は皇室くらいしか「さま」がついてなかったような気がする。もちろん高級ホテルなどは例外で「さま」付きだっただろうが。
蛇足ながら、右翼民族派の活動家と話すと「天皇さま」という言葉を聞くことがある。「一日も早く、天皇さまを靖国神社にお迎えしなければならない。われわれ右翼民族派の悲願だ」という風に使われている。「天皇陛下」より敬意のレベルを数段上げた呼称なのだろう。