家の近所に現れた黒猫母子。やっぱり猫の目はよく光る!
少し前のこと、我が家の近所に野良猫の親子が姿を見せるようになった。母子3人。上記の写真が筆者が撮った彼らの一家団欒の光景だ。ご覧のように母猫(手前)は体に白い部分があるが、子猫2人は真っ黒。白い部分は微塵もない。
その母子3人が夕方、電柱のところで休んでいたので、スマホを持って近づき写真を撮った。とはいえ近づきすぎると逃げられてしまうので3、4㍍離れたところでシャッターを切った。モニター画面で見てビックリ。スマホの微弱なライトでも猫の目はくっきりと光っているではないか。遠くから撮った写真をトリミングしたので画質は荒いが、6つの瞳が逆三角形に配置され、ライティングで輝いているのをお分かりいただけると思う。本当に猫の目はすごい。
その数日後、隣りのアパートの敷地内で子猫の一人が死亡していた。朝になってアパートの裏を覗くと、母猫が子猫の亡骸を口にくわえ、もう一人の子猫を従えてブロック塀の上を歩いていくのが見えた。子猫が死んだことを理解できないのか、それとも死んだと分かっているけど死骸を見捨てることができないのか。いずれにしてもかわいそうだなぁと思った。これも母親の愛だろう。
筆者は大の猫好きだ。猫を飼いたいと思っていた。そこでエサをチラつかせて子猫を呼びよせた。まだ子供だからだろう、子猫は警戒することなく我が家の玄関に入り込み、筆者はドアを閉じた。
「子猫ちゃん、捕えたり」
劇画「バガボンド」で沢庵禅師が武蔵を捕まえた場面を思い出して、こう呟いた。子猫ちゃんを段ボール箱に入れ、深夜だがすぐにコンビニに行って猫のお食事(缶詰)を買った。これから真っ黒クロスケの子猫ちゃんと暮らせるのだ。筆者は胸がワクワクだった。
だが家の外で母猫が「ニャ~ニャ~」と悲しい声を上げている。ドアの前で「わが子を返せ~!」と鳴いて抗議しているのだ。さすがにかわいそうになり、子猫ちゃんを解放した。この地を危険地帯だと思ったのか、その夜から母子は筆者の家の一帯から姿を消した。
先日、ネットを見ていたら、黒猫に関する投稿があった。なんでも米国ペンシルベニア州で捨て猫がいるという連絡を受けた動物保護団体が救助に行ったところ、40匹もの捨て猫がいて、そのほとんどが黒猫だったという。
全身が真っ黒という理由で、黒猫は昔から忌み嫌われる傾向がある。かのエドガー・アラン・ポーの有名な小説のタイトルは「黒猫」だ。ヨーロッパでは魔女狩りの時代に、黒猫は不吉とされて殺されたといわれる。今でも黒猫が前を横切ると不吉なことが起きるという言い伝えが残る国もあるようだ。日本でも怪談のドラマに出てくる猫は黒色が多い。視聴者を怖がらせるのに三毛猫では迫力不足なのだろう。
だがその一方で夏目漱石の小説第一作「吾輩は猫である」は漱石が庭に迷い込んだ猫にヒントを得て書き始め、その猫は黒猫だったとされる。そのせいか「吾輩は猫である」の本のイラストは黒猫が描かれることが多いようだ。
漱石は神経衰弱で暴れることもあり、妻鏡子に手を上げるまで精神的に追い詰められていたが、野良猫に癒されて気分が落ち着き、そればかりか文豪としての道を歩み始めた。鏡子が野良猫にエサを与えていたことが幸いした。こうして黒猫が漱石に福をもたらした。作家志望の人は黒猫を飼えばいいだろう。
大昔の日本では黒猫は「夜でも目が見える」という理由から魔除けや幸運、商売繁盛の象徴とされという。1969年には皆川おさむが「黒猫のタンゴ」を歌ってヒットさせた。たしかに黒色は人に不気味なイメージを与えるが、われわれ日本人はそうしたマイナス要素に神性を見出すものだ。大方の人はヘビを怖がる。だが世の中にはそのヘビを祀った神社がある。白ヘビなどは神の使いのように崇敬されることがある。そもそも龍だってヘビから生まれた伝説の霊獣だ。
米国において、猫が体の色が黒いだけで捨てられるとは理不尽な話。トランプ政権になってかの国の黒人差別が激化したため、猫もとばっちりを受けたのだろうか。
ちなみに黒色を嫌った有名人はたくさんいるが、筆者がすぐに思いつくのは故石原慎太郎。石原が都知事時代にカラスを迫害したのはあの色が怖かったからと言われている。いかにも差別主義者らしい。